推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~

推しの女形は花道の向こうに ~舞台で輝くあなたと、日常のあなたを、あたしはすべて知っている~

last updateTerakhir Diperbarui : 2025-12-11
Oleh:  佐薙真琴Baru saja diperbarui
Bahasa: Japanese
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「――すみません、これ、落ちていたので」 差し出した扇子を受け取った彼は、私の推し、鳳凰院蓮杖だった。 歌舞伎界の新星、完璧な女形として舞台で輝く彼。二年間、私はただのファンとして、遠くから見守るだけだった。それなのに、運命は突然動き出す。 「しばらく、私の世話をしてくれませんか」 こうして始まった同居生活で、私は知ってしまった。舞台の完璧な「女形」の裏に隠された、もう一つの顔を――。 朝が弱くて、コーヒーにうるさくて、部屋を散らかす。稽古で疲れ切って、弱音を吐く。そんな、生身の「男性」としての彼。 憧れていた推しは、こんなにも人間らしかった。 完璧じゃなくても、いい。むしろ、その不完全さが愛おしい。

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Bab 1

第一章「偶然の扇子」

 門野真澄かどのますみが初めて鳳凰院蓮杖ほうおういんれんじょうを観たのは、二年前の春だった。

 歌舞伎座の三階席、一番後ろの安い席。会社の先輩に誘われて半ば義理で訪れた舞台で、真澄の人生は一変した。花道から登場した蓮杖は、この世のものとは思えない美しさだった。白塗りの顔に紅を差し、金糸で鶴が織り込まれた打掛を纏った姿は、まさに「生きた人形」という表現が相応しかった。

 それ以来、真澄は蓮杖の熱烈なファンになった。公演があれば必ず足を運び、チケットが取れなければ当日券の列に並んだ。蓮杖の演じる『娘道成寺』の白拍子花子、『京鹿子娘道成寺』の清姫。彼の女形は、優美さと妖艶さが完璧なバランスで調和していた。

 真澄の部屋には蓮杖関連のグッズが溢れていた。公演パンフレット、ブロマイド、雑誌の切り抜き。友人たちは「また推し活?」と笑ったが、真澄にとって蓮杖は単なる趣味ではなく、生きる活力そのものだった。

 平凡な会社員としての日々。経理部で数字と格闘し、上司の小言に耐え、取引先との調整に追われる。そんな灰色の日常に、蓮杖の舞台だけが鮮やかな彩りを与えてくれた。

 そして今日、令和六年十一月の穏やかな午後。真澄は歌舞伎座の前に立っていた。

 昼の部の公演を観終わり、まだ興奮が冷めやらない。今日の蓮杖は特に素晴らしかった。『京鹿子娘道成寺』で舞台を舞う姿は、本当に蛇の化身が人間の姿を借りているかのようだった。

「はぁ……今日も最高だった」

 真澄は大きく息を吐いた。十一月の冷たい空気が肺を満たす。もう帰らなければならない。明日も仕事だ。

 歌舞伎座を背にして歩き出そうとしたとき、目の前の地面に何かが落ちていることに気づいた。

 扇子だ。

 それも、ただの扇子ではない。黒い漆塗りの骨に、金で松と鶴が描かれた、明らかに高級な品だった。扇面には「鳳凰院」という文字が小さく書かれている。

 真澄の心臓が激しく跳ねた。

「これ、もしかして……」

 蓮杖のものかもしれない。いや、間違いない。「鳳凰院」という屋号は、彼の一門のものだ。

 真澄は扇子を拾い上げた。手に取ると、かすかに白粉の香りがする。間違いない、これは舞台で使われたものだ。

「届けなきゃ」

 真澄は歌舞伎座の楽屋口へと駆け出した。

 楽屋口には、すでに何人かのファンが出待ちをしていた。真澄も以前は出待ちをしたことがあったが、最近は遠慮していた。あまりにも大勢の人が押し寄せるため、蓮杖の負担になると思ったからだ。

 受付の男性に事情を説明すると、彼は少し困った顔をした。

「落とし物ですか。お預かりしますので、こちらに」

「あの、できれば直接……」

「申し訳ございません。ご本人は今、楽屋におりますが、面会はお断りしておりますので」

 当然だ。真澄は諦めかけた。

 そのとき、楽屋口の奥から人の気配がした。関係者らしい男性が二人、何か話しながら歩いてくる。そして、その後ろに――

 蓮杖だった。

 舞台化粧は落とされ、黒いタートルネックのセーターにスラックスという普段着姿。しかし、その立ち姿の美しさは変わらない。背が高く、細身でありながら存在感がある。

 真澄は息を飲んだ。生の蓮杖。舞台でしか見たことのない人が、わずか数メートル先にいる。

 蓮杖は関係者と話しながら楽屋口へ近づいてきた。そして、受付の前で立ち止まった。

「橘屋さん、今日の打ち上げの件ですが……」

 彼の声だ。低く落ち着いた、男性の声。舞台で聞く高く澄んだ声とはまったく違う。

 真澄は思わず前に出た。

「あ、あの!」

 蓮杖が真澄の方を向いた。綺麗な切れ長の目が、真澄を捉える。

「はい?」

「こ、これ……落ちていたので」

 真澄は震える手で扇子を差し出した。蓮杖は一瞬目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。

「ああ、私の扇子。ありがとうございます。探していたんです」

 彼が扇子を受け取る。その指は驚くほど細く、白い。女形として舞台に立つために、日頃から手入れをしているのだろう。

「いえ、その……大切なものだと思って」

「本当に助かりました。この扇子、父から譲り受けた大切なものなんです」

 蓮杖は扇子を優しく撫でた。その仕草が、どこか愛おしそうで、真澄は胸が締め付けられる思いがした。

 そのとき、蓮杖が突然、よろめいた。

「蓮杖さん!」

 関係者の男性が駆け寄る。真澄も反射的に蓮杖の腕を支えていた。

「大丈夫です……少し立ちくらみが」

「また無理をして。今日は二公演連続だったでしょう。すぐに座って」

 受付の男性が慌てて椅子を持ってきた。蓮杖はそこに座り、額に手を当てる。

「すみません、お騒がせして」

「水を持ってきます」

 関係者が奥へ走っていく。真澄は蓮杖のそばにしゃがみ込んでいた。彼の顔色が悪い。よく見ると、目の下に薄い隈ができている。

「大丈夫ですか?」

「ええ、疲れているだけです。最近、稽古と公演が重なっていて」

 蓮杖は弱々しく笑った。その笑顔が、舞台で見せる完璧な微笑とはまったく違う、人間らしい脆さを含んでいて、真澄は動揺した。

 水を持った関係者が戻ってきた。蓮杖はゆっくりと水を飲む。

「本当にすみません。せっかく扇子を届けてくださったのに」

「いえ、お体が一番大切です」

 真澄は立ち上がろうとした。もう十分だ。推しに直接会えて、言葉も交わせた。これ以上は望んではいけない。

 しかし、蓮杖が真澄の手を掴んだ。

 冷たい手だった。

「あの……もう少し、手を貸していただけますか」

「え?」

「あなたの手……温かくて、安心します。母の手に似ているんです」

 蓮杖は真澄の手を両手で包んだ。その顔には、子供のような無防備な表情が浮かんでいる。

 真澄の心臓が爆発しそうだった。これは夢だろうか。推しの蓮杖が、自分の手を握っている。

「蓮杖さん、この方は……」

 関係者の男性が心配そうに尋ねた。蓮杖は真澄を見上げた。

「扇子を届けてくださった方です。お名前は?」

「か、門野真澄です」

「門野さん。もしよろしければ、少しの間、私の世話をしていただけませんか」

「え……?」

 真澄は自分の耳を疑った。世話? どういうことだろう。

「私、最近体調を崩しがちで。母が亡くなってから、身の回りのことをきちんとできていなくて。あなたの手は……母に似ているんです。だから、お願いできますか」

 それは、あまりにも唐突な頼みだった。

 関係者の男性も驚いた顔をしている。しかし、蓮杖は真剣だった。真澄の手を握る力が、わずかに強くなる。

「わ、私でよろしければ……」

 真澄は気づいたら答えていた。

 蓮杖は安堵したように微笑んだ。

「ありがとうございます。では、今から私の家まで来ていただけますか?」

「今からですか!?」

「ええ。できればすぐに。体調が悪いので、一人で帰るのが不安なんです」

 こうして真澄は、信じられない展開に巻き込まれていった。

---

 蓮杖の住まいは、都心から少し離れた閑静な住宅街にあった。伝統的な日本家屋で、門には「鳳凰院」という表札がかかっている。

「どうぞ、入ってください」

 蓮杖に促され、真澄は玄関を上がった。中は驚くほど広かった。廊下の先には日本庭園が見え、池に錦鯉が泳いでいる。

「すごい……」

「代々、歌舞伎役者の家系なので。この家も祖父の代から」

 蓮杖は真澄を居間に案内した。畳の部屋に、アンティークの調度品が並んでいる。床の間には掛け軸がかかり、違い棚には能面が飾られている。

「お茶を淹れますね」

「あ、私がやります!」

 真澄は慌てて立ち上がった。そうだ、自分は蓮杖の世話をするためにここに来たのだ。

「ありがとうございます。台所はあちらです」

 蓮杖に案内され、真澄は台所へ向かった。台所も広く、しかし不思議と生活感がない。冷蔵庫を開けると、中身はほとんど空だった。コンビニの弁当がいくつかと、ペットボトルのお茶。

「あまり料理はしないんです」

 後ろから蓮杖の声がした。

「お母様が亡くなってから?」

「ええ。半年前に。それから、ずっと一人で」

 蓮杖の声に、かすかな寂しさが滲んでいた。真澄は胸が痛んだ。

「それなら、私がお手伝いします。料理も掃除も、得意なので」

「本当ですか? それは助かります」

 蓮杖は嬉しそうに笑った。その笑顔は、舞台で見せる作られた笑顔ではなく、本当に心から嬉しそうな、子供のような笑顔だった。

 真澄はお茶を淹れた。緑茶の葉を探すと、高級そうな玉露があった。丁寧に淹れて、居間に戻る。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 蓮杖は湯呑みを両手で包み、ゆっくりと一口飲んだ。それから、目を細めて微笑む。

「美味しい。母が淹れてくれた味に似ています」

「そう言っていただけて嬉しいです」

 真澄も自分の湯呑みを手に取った。温かいお茶が喉を通り、体の芯まで温まる。

「門野さん」

「はい?」

「もしよろしければ、しばらくここに住んでいただけませんか」

 真澄は湯呑みを落としそうになった。

「す、住む……ですか?」

「ええ。私の身の回りの世話をしていただきたいんです。もちろん、きちんと報酬はお支払いします。お仕事はされていますか?」

「は、はい。会社員ですが……」

「そうですか。では、通いながらでも構いません。朝と夕方だけ来ていただくとか」

 蓮杖は真剣だった。真澄は混乱していた。これは本当に現実なのだろうか。推しの蓮杖から、一緒に住もうと言われている。

「あの……どうして、私なんですか? もっと適任の方がいるのでは」

「あなたの手です」

 蓮杖は再び真澄の手を取った。

「この手は、母の手に似ている。温かくて、優しい手。この手に触れていると、安心するんです」

 真澄は蓮杖を見つめた。彼の目には、純粋な懇願の色が浮かんでいる。これは計算された言葉ではない。本当に困っていて、本当に助けを求めている。

「分かりました。お手伝いさせてください」

「本当ですか!」

 蓮杖の顔がぱっと明るくなった。その瞬間、真澄は自分が正しい決断をしたと確信した。

「ありがとうございます、門野さん。これからよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 二人は手を握り合った。

 こうして、真澄と蓮杖の奇妙な同居生活が始まった。

 その夜、真澄は自分の部屋に戻ってから、ベッドに倒れ込んだ。

 信じられない。本当に信じられない。

 推しの蓮杖と、これから一緒に住むことになる。それも、彼から頼まれて。

 真澄は携帯電話を取り出し、親友の奈々子にメッセージを送ろうとした。しかし、途中で止めた。これは誰にも言えない。言っても信じてもらえないだろう。

 それに――真澄は天井を見上げた――これは本当に良いことなのだろうか。

 ファンとして蓮杖を愛してきた。遠くから見守り、舞台での彼の輝きに心を奪われてきた。しかし、これから見るのは、舞台の上の蓮杖ではなく、日常の中の蓮杖だ。

 完璧な女形ではなく、生身の男性としての蓮杖。

 その姿を見ても、自分は彼を愛し続けられるだろうか。それとも、理想が崩れてしまうのだろうか。

 真澄は不安と期待で胸がいっぱいになった。

 窓の外では、十一月の冷たい風が吹いている。明日から、新しい生活が始まる。

 真澄は目を閉じた。蓮杖の冷たい手の感触が、まだ手のひらに残っている気がした。

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第一章「偶然の扇子」
 門野真澄が初めて鳳凰院蓮杖を観たのは、二年前の春だった。 歌舞伎座の三階席、一番後ろの安い席。会社の先輩に誘われて半ば義理で訪れた舞台で、真澄の人生は一変した。花道から登場した蓮杖は、この世のものとは思えない美しさだった。白塗りの顔に紅を差し、金糸で鶴が織り込まれた打掛を纏った姿は、まさに「生きた人形」という表現が相応しかった。 それ以来、真澄は蓮杖の熱烈なファンになった。公演があれば必ず足を運び、チケットが取れなければ当日券の列に並んだ。蓮杖の演じる『娘道成寺』の白拍子花子、『京鹿子娘道成寺』の清姫。彼の女形は、優美さと妖艶さが完璧なバランスで調和していた。 真澄の部屋には蓮杖関連のグッズが溢れていた。公演パンフレット、ブロマイド、雑誌の切り抜き。友人たちは「また推し活?」と笑ったが、真澄にとって蓮杖は単なる趣味ではなく、生きる活力そのものだった。 平凡な会社員としての日々。経理部で数字と格闘し、上司の小言に耐え、取引先との調整に追われる。そんな灰色の日常に、蓮杖の舞台だけが鮮やかな彩りを与えてくれた。 そして今日、令和六年十一月の穏やかな午後。真澄は歌舞伎座の前に立っていた。 昼の部の公演を観終わり、まだ興奮が冷めやらない。今日の蓮杖は特に素晴らしかった。『京鹿子娘道成寺』で舞台を舞う姿は、本当に蛇の化身が人間の姿を借りているかのようだった。「はぁ……今日も最高だった」 真澄は大きく息を吐いた。十一月の冷たい空気が肺を満たす。もう帰らなければならない。明日も仕事だ。 歌舞伎座を背にして歩き出そうとしたとき、目の前の地面に何かが落ちていることに気づいた。 扇子だ。 それも、ただの扇子ではない。黒い漆塗りの骨に、金で松と鶴が描かれた、明らかに高級な品だった。扇面には「鳳凰院」という文字が小さく書かれている。 真澄の心臓が激しく跳ねた。「これ、もしかして……」 蓮杖のものかもしれない。いや、間違いない。「鳳凰院」という屋号は、彼の一門のものだ。 真澄は扇子を拾い上げた。手に取ると、かすかに白粉の香りがする。間違いない、これは舞台で使われたものだ。「届けなきゃ」 真澄は歌舞伎座の楽屋口へと駆け出した。 楽屋口には、すでに何人かのファンが出待ちをしていた。真澄も以前は出待ちをしたことがあ
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